君が見つめた海



 溜め息も涙も出ないほど、苦しかった。
 彼女はもう、居ない。
 このたった一つの事実が、どうしようもなく苦しかった。
 唯一、僕が甘えられる女性だった。僕の泣き顔も照れた顔も、彼女しか知らない。彼女さえ知っていれば、それで良かった。

 白い部屋、薄い黄色のカーテンが少し開いた窓から入ってくる風でゆらゆらと揺れている。その隙間から夏の日差しが痛いほど強く差し込んで、視界を更に白で塗りつぶされてしまいそうだ。
 白衣を着た若い男はいつの間にか部屋を出て行った。
 彼女は誰が来ても何も言わず、動かなかった。彼女の時間は止まってしまった。顔を覆う白い布が、けして寝ているのではないと痛いほど僕に思い知らせた。
 涙を拭う気力もなく、床に膝をついて彼女の横たわるベッドにしがみついた。
 何もしてやれなかった……。
 その気持ちが僕を責めた。
 心臓が弱いことは知っていたし、何度か入院し、僕もその間毎日見舞いに行った。だが、彼女はいつも笑ってこう言っていた。
「すぐ治るわ」
 勿論真に受けていたわけではなかったし、だからこそ一緒にいるときはなるべく彼女が動かなくてもすむように、自分で自分じゃないと思うほど動いた。彼女が出来るだけ自分でしたいと言い続けていたから、座るときに椅子を動かしたり、苦しそうだったら荷物運びを手伝ったりという、ほんの小さなことだったが。
 きっと他の女性だったら、僕は動かなかっただろう。酷くて結構だ。彼女以外に好いて貰おうなんて微塵も考えてない。他の女性には、彼女の代わりも出来ないだろうし、して欲しくもない。彼女は今も、心の中で僕に微笑み続けているのだから。
 僕は立ち上がって、今まで滅多にしなかった行動をした。
 顔にかけられていた白い四角の布を取り、近くでじっと彼女を見つめた。手を青白い頬に触れさせるとまだあたたかく、呼べば起きて微笑んでくれるのかと思うほど、安らかな表情だった。
 呼んでも返事が無いことなどとうに解っていた。堪らず、彼女の口唇を自分のそれで覆うように重ねた。動かないことなど、僕にとっては問題じゃなかった。何処まで想っているかを証明するためだった。そして、彼女のぬくもりを忘れないため。口唇では足らず、頬や額、耳や首筋、手や足など、服に覆われていないところ全てに口づけた。足らなかった。上半身をはだけさせ、鎖骨や胸を嘗め回すように口唇を這わせ、更には下半身ですらキスをした。少しの隙もなく。一通り終えた後で、丁寧に服を直してまたベッドに寝かせた。その間も、彼女は全く動じなかった。抵抗もせず、くすぐったがったりもせず、ただ僕の口唇を受けていた。服をはだけさせている間、誰も入って来なかったことがせめてもの救いだった。
 今頃彼女の両親は大慌てでここに向かっている事だろう。彼らが来る前に去ろうかと考えたが、それは彼女との別れを意味する。わざわざ彼女と居る時間を縮めてどうする? という自分の声に、抗うことは出来なかった。一秒でも長く、彼女と居たかった。
 しばらくして不意に音を立ててドアが開き、中年の夫婦が駆け込んできた。彼女と似た顔立ちの2人に、僕は会釈して部屋を譲った。
 部屋を出る前に、僕は心の中で彼女に別れを告げた。
 ありがとう、優羽。



 優羽の死に目に会えたのは僕1人だった。

 海を見たいという彼女を連れて、電車をいくつか乗り継いで海に行った。
 その日、僕らの学校は創立記念日で休みだった。
 夏は終わったと言っても、プールに入ったら気持ちいいような暑さだった。だから、僕は浜辺に着いたとき、貫けるような澄んだ青い空とその下に広がる青い海を見て、泳ぎたい衝動を抑えるのに苦労した。
 優羽がその横で泳げばいいのに、と苦笑していた。海パンを持って来なかったから、と僕も笑って答えた。実際その通りなのだが、むしろ彼女を1人にさせたくないという気持ちの方が俄然勝っていた。
こんな場所で彼女を1人にしてしまったが最後、どこかの男が彼女を連れ去ってしまいかねない。
 彼女は……優羽は、ガラス細工のようにきれいな存在だった。学校内でも、僕の中でも。
 学校では優羽は聖女という呼び名があったが、それをいちばん初めに口にしたのは僕だった。整った顔立ちと、腰あたりまである真っ黒でつややかな髪。ぱっちりした目が印象的で、一度見たら忘れられない。肌は透けるように白かったが、それは彼女が病気持ちで部屋からあまり出ないことが原因だった。
 発作の恐れがあったから、彼女は外に出たがらなかった。僕は努めてそのことに触れないようにした。しかし突然「倖彦と海が見たい」と言ったときはさすがに焦った。発作が怖くないのかと思わず訊いてしまった。すると彼女は、悲しい笑顔を浮かべてこう言った。
「倖彦と何処にも行ってあげられないことで後悔する方が怖い」
 その言葉に、どんな意味が含まれていたか……今なら解る。
 次の発作が起きたらもう助からない。
 それは彼女が本能的に察したことか、それとも両親と医者の会話を立ち聞きしてしまったのか、どちらにせよ、ショックは大きかったはずだ。けれど僕の前ではそんな表情は微塵も見せなかった。見舞いに行った僕を嬉しそうに微笑んで迎えてくれ、帰るときも少し淋しそうではあったが笑顔で送り出してくれた。その笑顔に何度助けられたか知れない。
 そう、彼女はいつも微笑っていた。僕に心配をかけさせまいと。彼女はそれ程、僕を好きでいてくれたのだ。自惚れに聞こえてしまうかもしれない。実際そうかも知れないが、根拠がある。
 スケッチブックが病室の隅に何冊も置いてあった。彼女が検査で部屋を出たときにふと目につき、入院生活は暇なのかと思いながら、それを開いて見た。どのページにも、何処をめくっても、僕しか描かれていなかったのだ。そのとき、たまたま側にいた医者は「君の話で耳タコが出来そうですよ」と苦笑していた。その時僕は恥かしさのあまり、変なことを言ってないだろうかと医者に訊いてしまった。
 そんな彼女が海を見たいと、わざわざ遠い「海」を指定したのも、僕が海を好きだと知っていたからだと思う。いつか連れて行きたいと言ったことさえあった。優羽はそれを覚えていたのだろう。
 僕が遠いから危険だと言うのも耳を貸さずに、勝手に医者に許可を貰ってしまった。その行動に僕は唖然としたが、医者が大丈夫だと言ったなら、と結局連れて行った。連れて行くべきではなかったのに。
 淡い青のロングワンピースと、麦藁帽子。足元は白いリボンを足の甲全体にめぐらしたサンダル。黒い髪は後ろで編んで下げ、ほっそりした身体は白い肌で覆われていた。日の光にさらされた優羽が眩しすぎて、僕は目を細めた。その眩しさは、彼女が生きている象徴だったかもしれなかった。
 海に着いてから浜辺で座って会話もなくただ海を眺めているだけだったが、彼女が飽きたと言わんばかりに僕をくすぐりだした。仕返しにくすぐってやった。彼女は笑い転げて、いつの間にか僕の腕の中……ちょうど僕が押し倒したような体勢になった。目が合った瞬間、僕らはどちらからともなく笑いを引っ込めた。何重にも絡み合うほどの視線がやりとりされた後、彼女はふと目を閉じた。僕の欲望を悟られてしまったのか、彼女の本心か、僕はゆっくり顔を近づけ、軽く口づけた。途端に焦がれるような、今までにない渇きが心の中を支配した。まるで火が点いたように、むさぼるようなキスをした。彼女にしか癒せない渇きは、キスを終えてもなお続いていた。
 僕は目で訴えた。すると彼女は少し顔を赤らめて、周りに人が居ないかときょろきょろ首を動かした。そして居ないことを確認して、ゆっくり目を閉じ、小さくうなずいた。
 僕らはひとつになった。付き合い始めてからこれで3度目だった。あまり無理はさせられないと、すぐいつもの二人に戻ったが、渇きは完全に癒されていた。
「こんな所でごめん」
 そう言った僕に彼女は幸せそうな、少し困った笑顔で首を横に振った。
 空の色が黄色くなり始め、そろそろ帰ろうかと砂浜から駅に続く歩道に出た。それが、優羽が僕の右横を歩く最後の姿になってしまうとは思いもせずに。
 後ろから来た大型のトラック車にヤバイほどの排気ガスを浴びせられ、僕らは咳き込んだ。しかし彼女は咳が止まらなくなってしまった。彼女は座り込んでもなお、「大丈夫よ」と努めて笑顔で言い続けたが、次第に表情が険しくなり、笑顔が消えていった。背中を擦っていたが、それが発作だと気づいて、僕はとっさに携帯で救急車を呼んだ。
 救急車が到着するまで、じれったかった。僕には何もしてやれない。苦しみを分けてすらもらえない。必死で頑張れと言い続け、細い背中を擦ってやることしか出来ない。連れて来るべきじゃなかった、あの時我慢すればよかった、少しでも彼女の体力を削るべきじゃなかったと後悔だけが渦巻きながら救急車に乗り込み、優羽の手を握って励まし続けた。



 奪わないでくれ。伝えてないことがあるんだ、どうしても伝えたいんだ。だから少しでいいから、僕に時間をくれ。優羽に伝えてないことがあるんだ……たったひとつ。だから、あと少しでいいから僕から優羽を奪わないでくれ!
 懇願した。懇願した。懇願した。
 世界中のありとあらゆるものに。

 病室のベッドの上に横たわる優羽のそばに歩み寄り、そっと髪をかき上げてやると、彼女はふと目を開いた。
 彼女の担当医が、僕らに時間をくれた。発作が起き、体力が奪われた今、彼女に残っているものは精神力だけだと言い残して、二人きりにしてくれた。
「こんなことになってごめんね」
 かすれた声で彼女が言った。僕は首を思い切り横に振った。
 涙が溢れて、頬を伝っていくのが判った。拭わずに、彼女の顔に寄って、伝えたかった言葉を、初めて口にした。
「愛してる」
 優羽の目にも、涙がにじみ、やがて溢れた。
「わたしも」
 涙を流しながら、後を追いかねない僕に、彼女は釘をさした。
「わたしの分も生きてね?」
「……ああ」
 声を絞り出して答えた。声なんか出ないほど、苦しかった。もどかしくて、彼女を抱き締めた。彼女も、力いっぱい返してくれた。
「幸せだったわ…倖彦と逢えて」
 彼女はそのまま目を閉じ、二度と帰らない旅に出た。
 僕に抱きついていた腕も何もかも、ぬくもりを残したまま力なくベッドに落ちて行った。
「優羽…優羽…優羽…」
 言葉が出てこなかった。壊れたレコードのように、彼女の名前を口にしていた。
 我に返ると、白衣の若い男、優羽の担当医が僕の肩を叩いていた。何事かと見上げると、彼もやりきれないような表情をしていた。しかし彼女の死だけにそんな表情をしているのではないと、数秒あとに僕自身が知ることになる。
 彼が口にした言葉は……僕を終わらない夏の陰りに引き摺り込んだ。
「3ヶ月……」
 訳がわからず、は? と訊き返す。
「君の子が、彼女のお腹に居たんだよ」
 一瞬にして、世界が反転したような頭痛が僕を襲った。
 僕の……子供? 嘘だろ?
「そのこと、優羽は?」
 混乱しながら、やっとのことで声を出した。うわずっていたかもしれない。
「彼女も……気づいてなかったよ」
 一昨日の定期検診の結果が今判ってね、と力なく彼が言った。
「もし気づいていたとしても、君には黙ってろと言っただろうね。今日の外出も、彼女は死を覚悟で行きたいと言ったんだよ。君と最後に思い出を作りたいと」
 その声を聞きながら、彼女の動かない体を精一杯抱き締めた。
「先生……」
 僕のかすれた声に、彼はなんだい? と先を促した。
「優羽は……本当に幸せだったのかな。……こんなに短い命で」
 そうだね、と溜め息混じりに彼は答えた。
「医者としては失言かもしれないが、健康な体で産まれてきて、病気一つせずに老いていく方が幸せとは限らないだろう? もちろんその方が良いに越したことは無い。けれど、彼女は17年間、精一杯生き抜いたじゃないか。どんなに苦しくても、歯を食いしばっていただろう? それは君がいちばん良く解っていることじゃないか?」
 確かに、彼女が弱音を吐くことは無かった。発作が起きても苦しいと言わなかった。運動が出来て羨ましいと言うことはあったが、それは憧れと割り切ったところがあった。
「それに……ほら、自分で確かめてごらん。彼女が今、どんな表情をしているか」
 言われて彼女の体をベッドに戻した。優羽は、安らかな、ちょっと見た感じだと笑顔と間違えそうな表情をしていた。
「その表情が、言ってるんじゃないのかな」
 幸せだったと。
 また救われてしまった。最後の最後まで、彼女は僕を救い続けてくれた。
 一度止まったはずの涙がまた溢れて、視界を歪ませた。言いようの無い気持ちの渦が、僕の中で暴れていた。嗚咽だけが漏れ、僕は彼女に抱きついて泣いた。離れたくないとねだる子供のように。
 大分落ち着いて手を離すと、それを見届けた彼が、持っていた白い布を彼女の顔にゆっくりとかぶせた。



 街の雑踏に流されるように歩き、自宅に着いたときは既に11時近かった。家族は寝ていて、家は静かだった。
 歩いている間中、はっとして右を振り向くことが何度もあった。
 きっとこれから、何度でも右隣を振り向き、彼女が居ない空間を受け入れられずに不思議な気持ちで見つめる日が続くんだろう。
 死してなおも僕の側にいてくれたとしても、いないとしても。
 否、彼女は側に居る。
 いつも微笑んでいる。僕の心の中で。
 崩れるように、ベッドに身を投げ出した。
 いつも微笑んでいた優羽の残像を思い出していると、ふいに頭の中に明るい彼女の声が響いた。
「かがり火ってきれいよね。私もかがり火みたいに誰かをほんの一時でも照らせたらいいなぁ」
 それはまだ、僕らが付き合う前のことだった。
 何の縁か、高校入学して以来、クラス替えがあったにもかかわらず、優羽と僕は同じ教室にいた。そして2年になったとき、席替えで優羽の隣をくじ引きで引き当て、クラスの男どもから羨ましがられた。その数日後に日直が回ってきた。放課後、彼女の横で僕が面倒臭がりながら日誌を書いていたときのこと。彼女はしまいかけた教科書を開いて、その中に載っていた写真を指し示して言った。
 僕はふぅん? と相づちを打っただけだったが、なんとなく彼女の方を見た。彼女は僕を見ていた。窓の外に居る誰かでもなく、僕を見ていた。
「なに?」
 居心地の悪さを感じ、思わず口を開いていた。彼女が何でもないわと顔を背けた。日誌書き終えたから帰って良いよと言って教室を出た。日誌を提出して戻ってきた僕は、自分の通学専用鞄が消えていることに驚いた。辺りを見回してもロッカーを覗いても無い。ふと視界に白い文字が映り、見ると黒板の隅に「玄関にあるよ」と書かれていた。女の子の字だ。まさかと思って玄関へ走った。そこには、僕の鞄を手にした彼女が居た。
 彼女は謝って僕に鞄を渡しながらこう言った。
「倖彦くんのかがり火になれたらいいなぁ」
 驚いて、鞄を取り落としそうになってしまった。何かの悪い冗談かと思った。学校いちの美女が、僕をそんなふうに見ていたとは思いもしなかったから。けれど彼女は、何も言わず僕が何か言うのを待っていた。その沈黙が、冗談ではないと訴えているようだった。
「考えとくよ」
 それだけ言うのが精一杯で、僕は彼女を置いて玄関を飛び出した。
 あの時の優羽の表情を今も忘れられない。潔いというか、どんな返事が来ても後悔しないと言わんばかりに僕を見つめていた。
 突然携帯がやかましく鳴り、はっとして身を起こした。
 いきなり現実に引き戻され、脱力して僕の体はベッドに逆戻りした。
「……かがり火、か」
 僕は天井に向かってぽつりとつぶやいた。
 優羽が言ったことは、現実になった。今生きているのは、彼女が生きる方へかがり火を照らしたからだ。僕に「わたしの分も生きて」と言ったからだ。
 きっとこれから、何があっても生きていくだろう。僕が生きている限り、彼女は死なない。少なくとも、僕の心の中では。そしていつも、僕に微笑み続けるだろう。眩しいほどの、あの笑顔で。
 ふと、昼間盗み見た彼女を思い出した。海を見つめて微笑んでいた彼女の横顔を。
 彼女があの時見つめたものは、海なんかじゃないと今ならはっきり解る。
 僕の隣に座って、何も喋らずに居たあの時間、彼女はもう遠い戻れない日々を見つめていた。
 彼女からの視線にわざと気づかないフリをしていたが、時々僕のほうを見ていた。それからまた海を見て、彼女は海に僕らの思い出達を並べていたんだろう。
 記憶の海を、大切そうに微笑んで見つめていた。
 その笑顔に全てを委ねて、僕はゆっくり目を閉じた。

あとがき
 ちょっと長めのお話を作ってみました。普段より力入れて作ったんですが…いかがでしょうか?
 暗いというのは置いといて(笑)ちょっとアダルト〜な部分もありますが、そこは流して頂いて(笑)全体的には問題なく読めるかと思います。
 このお話はモチーフがハッキリしています。というか、そのまんまです。GLAYが好きな方、もしくはGLAYの『ONE LOVE』を聴いたことがある方なら一目瞭然かと思います。私が『ONE LOVE』で気に入った(泣いた)曲の一つです。悲しい歌詞なのに明るい曲調のあの曲です(笑)
 もっと文章力があれば、もっともっと良い話になったと思うのですが、私に今出来る限界はここまでです。こんなもんか、と落胆されても構いません。今あるすべてのものを詰め込んだので、私的には満足しています。
 一応HP開設1周年の記念作品ですが、記念になったかどうか…(汗)

 ここまでHPを運営することが出来たのは来てくださった皆さんのおかげです。有難う御座いました♪
 今後も、どうかよろしくお願いします。
                       2002年3月9日
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