コスモス

 一陣の風が僕の中を突き抜ける。
風が冷たかった。
僕はこの手の中にある硬い感触から逃れられずに、焦点のあわない目で彼女を見つめる。
玄関には色鮮やかなコスモスのアレンジメントが置かれ、僕は一人そこに立ち尽くしていた。
出てって。
そう言われて、呆然とその場を後にする。
悪いのは、僕。

 手の中の感触を調べるように、拳を強く握り締める。
血がにじむ。手がべたつく。
でも、痛みは自然と感じなかった。
そんな痛さよりも苦しさの方が勝っていたから。
足がすくんだ。何も考えたくなかった。
それでも、頭には自然と彼女のことだけが浮かぶ。
謝ることさえ許されずに、僕の犯した過ちは彼女を傷つけた。
いや、傷つけたなんてものではないのかもしれない。
一度、彼女を殺してしまったのかもしれない。
殺したのだ。僕が。
 喫茶店の前で、僕はただ下を見つめて動けなかった。
自分のスニーカーをただ見つめて、彼女のことだけを考えて。
人にぶつかって睨まれても僕は他人事のように何も感じることができなかった。
彼女なしじゃ、何も感じられない。
戻りたい。戻れない。
戻れない。戻りたい。
その感情だけが、僕を支配していた。
それだけが、僕を人間として存在させてくれた。
 ふと、背後から悲鳴が聞こえた。
その声に無感動に振り向くと、女性は目を見開いて、みてはいけないもののように僕を見つめていた。
その視線の先にある、自分の右手を見る。血が滴り落ちていた。
それが、白いタイルの路上を赤く染めていくさまは一瞬でも、彼女のことを忘れさせてくれた。
何も感じないでいられた。
僕は数秒間、その赤い涙に見入っていた。
 風は冷たく、僕はコートも着ずに赤い拳を握り締めて、歩き続けた。

 抱いていたのは永遠の幻想。
そう気付いたのは夜になってからだった。
部屋の中で天井を見つめて、それでも右手は決して離さずに。
僕は彼女に永遠を求めていたのだろうか。永遠なんて無いのに。
冷静になると、様々な感情がこみ上げてきた。
彼女との日々の記憶も映画のように蘇る。
そして、映画のような美しい結末の変わりに、
僕が彼女の心を殺すその一言が最後に鮮烈に思い出された。
言い訳のしようがない、一言。
彼女の見開いた目がまざまざと心に映される。
彼女のその表情だけが頭から離れない。
 僕は身を起こし、何も映していないテレビの上の写真を見つめる。
桜の前で並ぶ僕らの写真だった。
幸せそうな笑みと、自分の記憶の中のさっきの彼女の表情。
僕は決心して、ベッドから立ち上がる。
右手の痛みを少しずつ感じ始めてきた。

 握り締めた右手を開いて、紅く染まった鍵を差し込む。
カチャリと音がして鍵が開く。
僕は彼女の部屋に入ると、彼女は僕の方に歩み寄ってくる。
不思議と彼女の声は聞こえなかった。
不思議と、彼女の表情は見えなかった。
拒絶したのかもしれない。
彼女の怒った声も、怒りの表情も見たくなかったのだろうか。
もう彼女にとって僕はかつての僕ではないことを知りたくなかったからだろうか。
不思議と、穏やかな気持ちになってきた僕は彼女を抱きしめて、そしてそのまま彼女のもとを離れた。
右手の鍵は、玄関へ落としていった。
視界の隅につい先週僕がプレゼントしたコスモスが映った。
それすらも今の僕にはセピアに見えた。
でも、それが僕にふさわしいと思った。

 もう、何も感じたくない。
何も考えたくない。
何も見たくない。
それならば。
消えてしまおう。
彼女のぬくもりの記憶を抱きしめて。
秋に咲く桜は僕には鮮やか過ぎた。


著者 taktmesser


 taktmesserさまより頂きました。
 貰うだけでは悪いので、こちらからも作品を贈らせていただきましたが。

 切ない小説ですねぇ。しかも痛そう。
 このサイトの売りを汲んでくださり、感謝感激です♪
 てか、文章格好良いなぁ。なんか、こう、『キマってる』感じが何ともそそられます(謎)
 ありがとうございましたっ☆


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